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残しておきたい福祉ニュース

 2019年 
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 2019.12.12 台風19号から2か月 続く避難生活 高齢者の孤立懸念も
 2019.12.20 障害者虐待、最多2745件 2018年度、「積極的な報告」も一因 厚労省
 2019.12.23 「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  PRESIDENT Online  政治学者 原 武史
 2019.12.23 3000人のハンセン病患者を隔離した"島"の大罪  PRESIDENT Online  政治学者 原 武史
 2019.12.24 障害者施設反対、21都府県で68件 事業者任せ「把握せず」も 全国調査
 2019.12.25 誤嚥性肺炎ゼロの介護施設は何が違うのか  たった数十秒でできるケア術
 2019.12.25 誤嚥性肺炎ゼロの介護施設は何が違うのか  口の中を清潔に、喉を鍛える


■2019.12.12  台風19号から2か月 続く避難生活 高齢者の孤立懸念も
台風19号の豪雨から12日で2か月となりました。
豪雨による浸水や土砂災害、強風などで大きな被害が出た被災地には、今も避難所での生活を余儀なくされている人たちが多くいます。一方、仮設住宅では、住民が分散することで、ひとり暮らしの高齢者などが孤立することが懸念されています。

福島県内 450人以上が避難所生活

福島県内では台風19号の豪雨により、31人が死亡しました。県のまとめによりますと住宅の被害は全壊が1339棟、半壊が1万1230棟、一部損壊が5697棟にのぼっています。

避難所で生活を続ける人は11日の時点で、郡山市で182人、いわき市で179人、伊達市で59人、須賀川市で23人、本宮市で15人のあわせて458人となっています。

郡山市といわき市が、避難所を出ることができない理由について聞き取り調査を行ったところ、自宅の修理を行っている間の一時的な避難先が見つからないという声や、公営住宅などへの入居が決まっているものの、国や自治体からの支援金などが手元に届いておらず、生活に必要な物資をそろえられないという回答が多いということです。

福島県や自治体は、公営住宅や仮設住宅の活用などを呼びかけるとともに、当面、避難所は閉鎖せずに受け入れを続けるとしています。

福島県内で最も多い110人余りが避難生活を続ける、いわき市にある内郷コミュニティセンターにいる60代の男性は「自宅のアパートに戻るつもりですが、修繕には早くても年明けまでかかりそうです。避難生活が長くなり、妻が体調を崩しました。いつまで避難所にいられるかもわからず、今後の生活が不安です」と話していました。


長野 栃木 千葉 神奈川でも計100人余が避難所生活

また、11日の時点で、
▽長野県で20世帯45人
▽栃木県で21世帯40人
▽千葉県で11世帯13人
▽神奈川県で4世帯6人の、合わせて56世帯104人が避難所での生活を続けています。

このほか、仮設住宅や自治体が民間の住宅を借り上げる、いわゆる「みなし仮設」で生活する人もいて、復旧や生活再建に向けては継続的な支援が求められます。


高齢者などの孤立も懸念
被災地域では、高齢者などの孤立も懸念されています。

このうち、千曲川の堤防が決壊した場所に近い長野市豊野町で1人暮らしをしている久保則子さん(79)は、自宅の1階が浸水し、2階で生活を続けています。戸締まりに問題があるため、夜の間だけは、歩いて10分ほどの所にある妹夫婦の家ですごしていますが、離れた場所に移り住んで新たな人間関係を築くのは難しいと感じたため、住み慣れた自宅に残ることを決めています。

しかし、精神的な疲れに加え、自宅の片づけの際に腰を痛めてしまったため、外出することが難しくなり、バスを使って通っていた三味線教室にも行かなくなってしまいました。

それに加えて、周辺のおよそ10世帯のうち久保さんともう1世帯を除いては仮設住宅などがある別の地域に移ってしまったため、以前のような近所づきあいも減り、今は、日中のほとんどの時間を自宅の2階で何もせずに過ごしているということです。

久保さんは「仲がよかった近所の人がいなくなり、本当にさみしいです。ピンと張った気持ちがいつか切れてしまうのではないかととても怖い思いをしています」と話しています。


こうしたなか、長野市では、住民どうしの交流拠点となる施設が新たに開設されました。
開設されたのは「まちの縁側ぬくぬく亭」と名付けられたプレハブの施設で、千曲川の堤防が決壊した長野市穂保に近い豊野町に被災者支援を行ってきた12の団体が作りました。

広さおよそ60平方メートルの施設には、午前11時のオープンとともに被災地域の住民などが訪れ、ボランティアが用意した豚汁などの提供を受けました。
そして、仮設住宅に入居するなどして地域を離れた住民と、浸水した自宅の2階などに残っている住民が久しぶりの再会を喜び、お互いの近況を語り合う姿が見られました。

施設を作った団体の1つ、社会福祉法人「賛育会」の松村隆事務長は「被災した人たちの気持ちがめげないよう、孤独感を少しでも軽くする場所にしたいです」と話していました。
この施設は、来年3月まで土日を含めて毎日、午前10時から午後5時まで開かれます。


生活再建の見通し立たない住民も

台風19号による土砂崩れで住民3人が死亡し、5棟の住宅が全半壊した群馬県富岡市の内匠地区では、現場で壊れた住宅を解体する作業や、崩れたのり面をコンクリート製にするためのボーリング調査が行われていました。

この地区に住む荻原栄一さん(54)の自宅は土砂で流された車が突っ込むなどして半壊しました。荻原さんの自宅は敷地内を復旧工事の車両が通るため自宅の修理を行うことができず、今もブルーシートで一部が覆われ、窓ガラスも割れたままの状態で修理のめどは立っていません。

荻原さんは「裏山が崩れるとは思わなかったので2か月たっても信じられない思いです。安全な場所はないのだと改めて思いました」と話していました。

富岡市は、自宅に被害を受けた内匠地区の住民、4世帯12人に対し、半年間、市営住宅やアパートなどを無料で貸し出しています。荻原さんも自宅から2キロほど離れた市内のアパートで家族4人で暮らしていて、今後、どのように生活を再建していくか見通しは立っていないということです。

荻原さんは「慣れないところで生活していて目に見えない負担も大きいです。自宅に1年以上住まないと傷んでしまうのではないかと心配です」と話していました。

■2019.12.20  障害者虐待、最多2745件 2018年度、「積極的な報告」も一因 厚労省
2018年度に全国の市区町村などが確認した障害者への虐待は、前年度より127件多い2745件と過去最多を更新したことが20日、厚生労働省が発表した調査で分かった。

うち福祉施設の職員らによる虐待は128件増の592件で過去最多。同省は深刻な事態になるのを防ぐため「軽微な事案も積極的に報告してほしい」と呼び掛けており、それも増加の一因とみている。

施設職員らによる虐待に関する通報件数は2605件で、全体の3割はその施設の職員や設置者・管理者からのものだった。

施設職員らによる虐待の被害者は前年度より111人多い777人。うち知的障害が74.8%を占めた。自閉症の症状がある場合にパニックやこだわり行動が起こりやすく、その対応が難しいことなども背景にあるとみられる。ただ厚労省は「難しいが支援技術は既に確立されている」として、施設職員が必要なノウハウを得るための研修などを強化していく方針だ。


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2018年12月26日

障害者虐待、最多の2618件 2017年度、−厚労省

厚生労働省は26日、2017年度に全国の自治体などが確認した障害者への虐待は、前年度より98件多い過去最多の2618件だったと発表した。うち福祉施設の職員らによる虐待も464件に上り、最多を更新。被害者は346人増の3544人で、1人が家族の虐待で死亡した。

施設職員らによる虐待は、調査が始まった12年度以降増え続けている。17年度は前年度より63件増えた。この中で、虐待行為の類型(複数回答)を見ると、身体的虐待が56.5%で最も多く、暴言などの心理的虐待が42.2%、性的虐待が14.2%と続いた。

施設職員ら以外を見ると、家族や親族ら養護者による虐待は前年度比19件増の1557件。このうち複数回答では身体的虐待が61.2%と最多で、障害年金を勝手に使うなど経済的虐待は22.9%だった。職場の雇用主らによる虐待は、16件多い597件だった。

■2019.12.23  「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  PRESIDENT Online  政治学者 原 武史
岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。ハンセン病患者を隔離する目的で1930年に開設されたが、その背景には皇室が深く関わっているという。政治学者の原武史氏が解説する

国家の思想によって運命を変えられた島

瀬戸内海には、全部で大小七百あまりの島があると言われている。その中には、淡路島や小豆島のように『古事記』の国生み神話に早くも出てくる島もあれば、宮島(厳島)のように嚴島神社がユネスコの世界文化遺産に登録され、多くの観光客でにぎわう島もある。

これらの島々ほど有名ではないが、明治以降の近代化とともに国家による厳重な管理下に置かれ、景観が一変した瀬戸内海の島もある。

岡山県の長島と広島県の似島である。

二つの島の運命を大きく変えたのは、「衛生」という思想であった。いかにして恐るべき伝染病から日本を守るべきか。この課題にこたえるべく、1895(明治28)年と1905(明治38)年に開設されたのが似島の陸軍似島検疫所(後の第一検疫所)と同第二検疫所であり、1930(昭和5)年に開設されたのが長島の国立らい療養所(現・国立療養所)長島愛生園であった。「島」という地形が、病原体を隔離するための空間となるのである。

似島の陸軍検疫所は、日本の「外」から持ち込まれる可能性のある病原体を一カ所に集めて消毒したり、患者を隔離したりするための施設であった。これに対して長島愛生園は、日本の「内」に散在している病原体を一カ所に集め、患者を徹底して管理するための施設であった。前者はコレラや赤痢の侵入を防ぐための、後者はもっぱら「癩病」と呼ばれたハンセン病の患者を隔離するための、いずれも国内最大の施設になってゆく。

隔離の地が「島」でなくてはいけなかった理由

それにしても、なぜ似島と長島だったのか。

1894(明治27)年から95年にかけての日清戦争では、軍人や軍属が戦地から病原体を持ち込み、国内でも赤痢やコレラが大流行した。広島には大本営が置かれ、明治天皇が滞在していたから、病原体の侵入をくい止めることは喫緊の課題となった。

臨時陸軍検疫部事務官長の後藤新平(1857〜1929)の建議を受け、同検疫部長の児玉源太郎(1852〜1906)は1895年6月、広島に近い似島に世界最大級の大検疫所を開設させた。その背景には、天皇という「浄」のシンボルがあった。




広島には大元帥陛下御駐蹕あらせられしのみならず、重要なる諸機関は総てこの地に設置しありて本邦と戦地とに於ける人馬の往来は勿論、荷物等の発送も亦必ずこの地を経て宇品港より積載する事にてありき、乃ちこの地と大連若しくは旅順との間に於ける交通は非常に頻繁なるを以て万一彼の土に於ける悪疫をこの地に齎し帰る等のことありては、大元帥陛下に対し奉りて恐れ多きのみならず疫病の流行と共に重要なる諸機関の運転を妨阻するが如きことありては一大事なり。(『芸備日日新聞』1895年5月13日)



従来のように、港に消毒所を設置するだけでは感染をくい止めることはできない。「島」でなければ、日本国内にコレラや赤痢が持ち込まれ、ひいては「大元帥陛下」、すなわち明治天皇にも感染する可能性を否定できなかったのだ。

検疫と隔離は「ある思想」に基づいて行われていた

征清大総督として戦地から帰還した小松宮彰仁親王(1846〜1903)は、明治天皇から「消毒の設備はどうして置いたか」と尋ねられたときに備えて検疫所を開設したと児玉から聞かされ、真っ先に検疫を受けた。ここから「天皇陛下の検疫所」という観念が生まれ、他の凱旋将軍も一人残らず検疫を済ませたという(鶴見祐輔編著『後藤新平』第一巻、後藤新平伯伝記編纂会、1937年)。

前近代から天皇は、ケガレ(「穢」)の対極にあるキヨメ(「浄」)のシンボルであり続けた。だがここで意識されているのは、むしろ近代の衛生学的な「清潔」の観念と結びついた天皇である。

いや正確にいえば、両者は一体となっている。「島」に検疫所を設け、帰還した兵士を集めて徹底した消毒を行い、一人でも伝染病の患者が見つかれば隔離することで、天皇の支配する「清浄なる国土」を守らなければならないという思想が見え隠れしているのである。

「ハンセン病患者の隔離はアウシュビッツの思想と同じ」

同じことは、長島愛生園についても言える。

日本で初めて設立されたハンセン病の隔離施設は、1909(明治42)年に東京郊外の東村山村(現・東村山市)に開設された第一区府県立全生病院(現・国立療養所多磨全生園)である。この病院に医長として赴任したのが光田健輔(1876〜1964)であった。

全生病院では脱走者があとを絶たなかったことから、光田は「島」に患者をまるごと隔離することを考えた。晩年の回想録である『愛生園日記 ライとたたかった六十年の記録』(毎日新聞社、1958年)のなかでは、「できれば大きな一つの島に、日本中のライを集めるというようなことを考えていた」と述べている。

光田がまず目をつけたのは、沖縄県の西表島であった。だが西表島はマラリアの流行地である上に本土から遠かったため、第二候補とされた長島に白羽の矢が立てられた。長島愛生園は公立の全生病院とは異なり、初めての国立療養所として1930年11月に開設された。

31年3月には光田が初代園長として着任して最初の患者を受け入れ、同年8月には早くも定員の400人を突破、43年には患者数が2000人を超えた。光田は園長を退官する57年3月まで、絶対的な権力を振るいつつ長島愛生園に君臨し続けたのである。

光田が進めた隔離政策を、ノンフィクション作家の高山文彦はこう意味付けている。




その考えの根本にあったのは、日本中の患者を離島に集めて一歩も外へ出さず、結婚も出産も許さずに一生を島で終わらせれば、最後のひとりの死滅とともにハンセン病も絶滅するというもので、これはアウシュビッツの思想とまったく同じものであった。その根底には劣等民族や精神病者を排除して近代帝国を完成するという優生思想が明瞭に存在する。(『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』、小学館、2017年)




貞明皇后の言葉が隔離政策を後押しした

この隔離政策にお墨付きを与えたのが、大正天皇の后、節子(貞明皇后)であった。

節子は、ハンセン病患者の垢を清め、全身の膿を自ら吸ったという伝説がある聖武天皇の后、光明皇后に対する強い思い入れをもっていた。昭和になり、皇太后となった節子は、「救癩」のため多大なる「御手許金」を下賜したほか、「癩患者を慰めて」と題する和歌を詠んでいる。

つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて

行くことが難しい自分自身に代わって、患者の友となって慰めてほしい――皇太后からこう呼びかけられた光田は、感激を新たにした。天皇と並ぶ「浄」のシンボルとしての皇太后が、「穢」としての患者に慈愛を注ぐことはあっても、直接「島」を訪れることはない。だからこそ光田らがその代わりにならなければならないというのだ。

35年1月18日、光田は東京の大宮御所で皇太后に面会し、「一万人収容を目標としなければ、ライ予防の目的は達せられないと思います」と述べたのに対して、皇太后は「からだをたいせつにしてこの道につくすよう」と激励している(『愛生園日記』)。

特効薬の開発後も隔離政策は続いた

似島の陸軍検疫所は、45年8月には広島で被爆した1万人とも言われる市民を収容している。「外」からの患者を隔離するための施設が、敗戦の直前に図らずも「内」からの被爆者を収容するための野戦病院に転用されたのだ。検疫所は戦後に規模を縮小し、58年7月には完全に閉鎖された。

一方、長島愛生園は、戦後も戦前と同様の役割を果たし続ける。戦時中に米国で特効薬プロミンが開発され、ハンセン病が不治の病でなくなったにもかかわらず、国の隔離政策が改まることはなかったからである。

その背景には、皇室からお墨付きを得た光田の「衛生」思想があった。一見、近代的な装いをまとったその思想は、皇室を「浄」のシンボルと見なす前近代以来の思想と結びつくことで、揺るぎないものとなった。

皇室の「負の歴史」を地形から読み解く

現上皇は、結婚した翌年の1960(昭和35)年8月6日に皇太子として似島を訪れている。2016年8月8日の「おことば」で「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と自ら述べたところの「島々への旅」は、まさにこの似島から始まったのである。

また天皇時代にあたる2005年10月23日には、現上皇后とともに歴代の天皇として初めて長島を訪れ、愛生園で暮らす26人に声をかけている。彼らはもはや患者ではなかった。帰るべきところがないという理由から、完治してもなお愛生園で生活している人々だったからだ。

現上皇にとって似島を訪れることは、戦争という、自らの父が深く関わった過去の歴史と向き合うことを意味した。一方、長島を訪れることは、ハンセン病という、自らの祖母が深く関わった過去の歴史と向き合うことを意味したはずである。どちらも皇室にとっては負の歴史といえる。

その歴史を「島」という地形から探るべく、私もまたKADOKAWAの小林順『本の旅人』編集長と、担当編集者の岸山征寛さんとともに鉄道とタクシー、フェリーを乗り継いで二つの島を訪れることにした。

■2019.12.23  3000人のハンセン病患者を隔離した"島"の大罪  PRESIDENT Online  政治学者 原 武史
岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。ハンセン病患者を隔離する目的で1930年に開設され、いまも長島に残る。患者に対する差別や偏見を助長してしまった隔離政策とその施設は負の歴史を持っている。当時の患者たちはどのような心境で暮らしていたのか。政治学者の原武史氏が取材した

「日本のエーゲ海」の向こうには、かつての隔離施設があった

2018年8月20日月曜日、新横浜を9時29分に出た「のぞみ19号」は、岡山に12時27分に着いた。12時55分発のJR赤穂線上り播州赤穂ゆきの普通電車に乗り換える。赤穂線は山陽本線の相生と東岡山の間を結んでいて、東岡山までは山陽本線と同じ線路を走る。

東岡山でようやく山陽本線から分岐する。赤穂線は山陽本線よりも海側を走るが、車窓から瀬戸内海を望むことは全くできない。長島愛生園がある瀬戸内市の中心駅、邑久に着いたのは13時19分。赤穂線は単線のため、中心駅と言っても上下線共用のホームが1つしかない。

瀬戸内市の観光の目玉は、「日本のエーゲ海」と称される牛窓だろう。牛窓は古くから港町として栄え、江戸時代には将軍の代替わりなどに際してソウルから派遣された朝鮮通信使が立ち寄ったことでも知られる。牛窓に比べると、これから行く長島は観光のイメージが皆無と言ってよい。

愛生園まで行くバスもあるが、本数が少ないため駅前に停まっていたタクシーに乗る。どこまで行ってものどかな農村の風景が広がるばかりで、市名に反してなかなか瀬戸内海が見えてこない。20分あまり走ったところで、ようやく前方の視界が開け、橋が見えてきた。本州と長島の間にかかる邑久長島大橋である。

島から脱走しようと命を落とした患者もいた

1988年5月に開通したとき、この橋は「人間回復の橋」と呼ばれたという。本州と陸続きになり、「島」という隔離された環境ではなくなったからだ。海峡の幅は一番狭いところで30メートルほどしかなく、泳げばすぐに渡れそうにも見えるが、潮の流れが速く、脱走を試みて命を落とした患者も1人や2人ではなかった。

橋を渡ると、すぐに国立療養所邑久光明園が見えてくる。長島愛生園同様、ハンセン病の療養所で、1938(昭和13)年4月に第3区府県立光明園として開設され、41年に国立療養所となった。患者数は最大で1100人あまりに達したが、現在の入所者数は100人にも満たず、新たに民間の特別養護老人ホームが建てられている。

長島というのは、その名の通り東西に長い島である。邑久光明園からさらに3キロほど進んで行くと、右側の視界が開けて瀬戸内海が広がった。この海を見下ろす高台の上に、長島愛生園の事務本館が建っていた。時計の針を見ると、午後2時前を指している。

夫婦単位で住める「6畳2間の住宅」は強制隔離の象徴

1931年3月に光田健輔が81人の患者とともに東村山の全生病院から長島愛生園に移ったときには、極秘に列車が運転された。患者を乗せた列車は貨物列車に増結され、東村山から西武線や中央線や東海道本線などを経由し、港に近い大阪の桜島まで走った。さらに大阪港から長島まで船が運航されたが、結局長島までは2日あまりを要している(『愛生園日記』、毎日新聞社、1958年)。

園長として赴任した光田を迎えた事務本館は、現在、歴史館として公開されており、その横に現在の事務本館がある。歴史館の見学は後回しにして、先に愛生園内を散策し、史跡を見学することにした。

まず事務本館裏手の丘を上る。芝刈りに来ている業者を除いて人の姿を見かけない。丘の斜面に10坪住宅と呼ばれる狭い木造家屋が残っていた。夫婦単位で住めるよう光田が考案した6畳2間の住宅は他の療養所には見られず、強制隔離を象徴する建物となった。だが空き家になって久しく、いつ壊れてもおかしくない状態にある。

気温は30度ぐらいだろう。海から風が吹くせいか、それほど暑さを感じない。聞こえてくるのは、ツクツクボウシの蝉時雨と、園内の随所に設置されたスピーカーから流れてくる、高校野球を実況中継するラジオのアナウンサーの声だけだ。スピーカーは、目の不自由な人に場所を知らせる盲導響と呼ばれる装置ではないか。

患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した歴史

さらに坂道を上ると、「恵の鐘」と呼ばれる鐘楼堂が現れた。標高40.2メートルの「光ケ丘」にある。さすがに見晴らしはよく、近くには干潮時に歩いて渡れる手掛島(弁天島)が、遠くには小豆島が眺められる。手掛島には、光明皇后をまつる長島神社がある。

鐘の表面には、第1回で紹介した皇太后節子の「つれづれの〜」という和歌が刻まれている。だがここは、36年に患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した「長島事件」の舞台でもある。890人の定員を上回る1000人あまりの患者を受け入れたことで、患者の不満が爆発したのである。

これ以降も患者数は増え続け、ピークの43年には2021人に達した。邑久光明園と合わせて、長島全体で3000人あまりの患者がいたことになる。

丘の尾根に沿うようにして遊歩道が整備されている。谷に当たる部分には、黄色や橙色の屋根も鮮やかな平屋建の集合住宅がいくつも並んでいた。

反射的に多磨全生園を思い出した。全生園にも似たような平屋建の住宅があるからだ。だが、似ているのはあくまでも住宅だけで、あとは全くと言っていいほど違う。全生園は隔離されているとはいえ周辺は住宅地で、自由に出入りできる。実際に園内に入ると、散歩やジョギングをしている人たちをよく見かける。

一方、愛生園はたとえ本州と橋でつながっても、交通が不便な離島にあるという環境そのものが変わるわけではない。全生園のように、近隣住民が気軽に園内を通り過ぎることはあり得ないのだ。

いまなお続く偏見で故郷に戻れない遺骨が眠る

愛生園の入所者数は、2018年8月20日現在で161人にまで減った。平均年齢は85歳。住宅は、病気にかかった人が入る病棟、介護が必要な人が入る特養棟、健常者が入る一般棟の三種類に分かれている。丘の周辺に点在しているのは一般棟だが、空き家が目立っている。ちなみに職員数は400人で、入所者よりずっと多い。

丘を下ると園の北側に出る。カキの養殖イカダが浮かぶ海を望む高台に納骨堂がある。ハンセン病に対する差別や偏見はいまなお消えず、故郷に戻ることのできない3600柱を超える遺骨が眠っている。2005年10月23日に愛生園を訪れた現上皇と現上皇后は、納骨堂に献花し参拝している(中尾伸治「天皇・皇后両陛下を長島にお迎えして」、『愛生』2005年1月号所収)。

海岸沿いには、隔離された患者を最初に収容して消毒を行った収容所や、逃走を試みた患者や風紀を乱した患者を収監した監房が残っていた。光田健輔は懲戒検束権をもっていたため、裁判を行うことなく独断で患者を監房に送り込むことができた。ここは日本でありながら日本の法律が適用されない治外法権の地だったのだ。

収容所の近くには、1939(昭和14)年に建設された収容桟橋も残っていた。この桟橋は患者専用で、職員などは別の桟橋を利用した。見送りに来た家族も、この桟橋から島内に入ることはできなかった。

初代園長・光田の評価は簡単には下せない

散策を終えた私たちは、歴史館を見学することにした。1955年当時の園長室が復元されている。壁を背にする形で大きな机と椅子があり、机の上には顕微鏡が置かれている。その背後には本棚がある。壁には歴代園長の肖像写真が掲げられているが、初代園長だった光田健輔の在任期間は26年間と最も長かった。

ここに患者が立ち入ることはできなかった。「指令室」と呼ばれたこの部屋からは、日本全国のハンセン病療養所に指令が発せられたばかりか、国策にも影響を及ぼす指令が発せられた(『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』、小学館、2017年)。

園長室に隣接して、「先駆者の紹介」のコーナーがあった。光田健輔については、「愛生園の初代園長で、ハンセン病研究の第一人者です。彼の『全患者の強制隔離』という考えは、日本の政策に大きな影響を与えましたが、彼の評価は当時の社会状況も考えなければなりません」「彼の評価は時代背景や医学水準、社会状況などを総合的に判断して行わなければならず、その判断は分かれるところです」という説明がなされていた。

強制隔離が間違っていたことは否定できないが、現在の高みに立って全面否定することもできないという相矛盾した評価がうかがえた。

長島愛生園に通った精神科医・神谷の功罪

神谷美恵子(1914〜79)に関する展示もあった。

神谷は1943年に長島を訪れ、初めて光田に会った。「光田健輔先生という偉大な人格にふれたことが、その後の一生に影響をおよぼしている」(「らいと私」、『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』、みすず書房、1980年所収)と述べるほど、その出会いは決定的であった。

1957年から72年まで、神谷は精神科医として、兵庫県芦屋の自宅から片道5時間あまりをかけて、長島愛生園まで通い続けた。66年に出版され、皇太子妃(現上皇后)にも影響を及ぼした『生きがいについて』は、愛生園での医師としての体験に根差した作品であった。79年に死去したが、園内には遺金によって「神谷書庫」が設けられ、ハンセン病関連の文献が収蔵された。

しかしジャーナリストの武田徹は、神谷の姿勢をこう批判している。
本人の意志とは無関係に神谷もまた「社会的貢献」をしている。神谷の生きがい論が療養所をふたたびユートピアとして描いたため、隔離政策を省みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。(『「隔離」という病い 近代日本の医療空間』、中公文庫、2005年)

療養所をユートピア=良き場所と見なす点において、神谷美恵子の視点は光田健輔に通じるとしたわけだ。

隔離施設での生活を望む「光田派」の患者もいた

実際に神谷は、光田に対する批判が強まってからも、「いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景からくる制約を免れうるであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう」(「光田健輔の横顔」、前掲『神谷美恵子著作集2』所収)と述べるなど、光田を擁護し続けた。けれども展示には、神谷のそうした側面については触れられていなかった。

館内の見学を一通り終えてから、受付談話室で学芸員の田村朋久さんに面会した。私は田村さんに、見たばかりの印象を率直にぶつけてみた。

——光田健輔に関する説明文は、ちょっと矛盾していると言いますか、評価を避けているような苦しい文章になっていますが、これはなぜなのですか。

「光田が園長だった時代には、光田派の患者と反光田派の患者がいました。いまでは強制隔離が間違っていたことがわかっていますが、当時は社会の差別や偏見が強く、患者のなかには差別や偏見を耐え忍んだまま一生を過ごすよりも、自然豊かな愛生園で生活の保障を受けられるほうを望む人たちがいたこともまた確かです。そうした人々から、光田は感謝されていたのです。説明文には、光田派の患者もいたという事実が踏まえられています」

負の歴史として、人権教育の場へ

——しかし、光田が進めた「無らい県運動」は、ハンセン病が恐ろしい急性伝染病だという誤った情報を広めることで、差別や偏見を一層強めてしまいましたよね。彼は病理学者として、ハンセン病がきわめて伝染力の弱い病気であることを知っていたはずなのに、真逆なことをした。しかもプロミンが開発されてからも、強制隔離を改めようとしなかった。もし戦後直ちに過ちを認めていれば、差別や偏見は薄まったのではないでしょうか。

田村さんがうなずいた。私は話題を変えた。

——入所者数が161人となり、平均年齢が85歳ということは、近い将来、入所者がいなくなることも予想されます。そのとき、長島愛生園はどうなるでしょうか。

「人権教育の場として残すべく、世界遺産の登録を目指しています。現在でも、歴史館には年間1万2000人が訪れています。4割が学校関係者です。世界遺産に登録されれば、この数はもっと増えるはずです」

長島愛生園は、後世にきちんと記憶されなければならない負の歴史をもっている。その歴史を伝える建物や施設もきちんと保存されている。世界遺産登録をひそかに応援したい気持ちになった。

■2019.12.24  障害者施設反対、21都府県で68件 事業者任せ「把握せず」も 全国調査
グループホーム(GH)などの障害者施設が住民の反対で建設できなくなったり、建設予定地の変更を余儀なくされたりしたケースが、過去5年間に少なくとも全国21都府県で計68件起きていたことが毎日新聞の調査で明らかになった。反対運動が起きても施設を運営する事業者に任せ、県や自治体などが対応しなかったケースが32件あった。障害者が地域の中で暮らせるよう厚生労働省はGHの整備を進めているが、誤解や偏見に基づくあつれきが各地で頻発している実態が浮かんだ。

障害者施設の建設を巡る住民の反対運動の多くは人口が密集する都市部で起きていると考えられるため、47都道府県と、道府県庁所在地、政令市、中核市、東京23区の計106自治体に今年9月、2014年10月〜19年9月の5年間に起きた反対運動などについて尋ねる調査票をメールで送付。全てから回答を得た。

その結果、反対運動による障害者施設の建設中止や予定地の変更などは計68件起きていた。施設を種類別でみると、GHなど入居施設が52件で最多。就労や発達障害支援など通所施設が17件、放課後デイサービスなど障害児施設も8件あった。障害の種類別では、知的障害者や精神障害者の施設への反対が全体の7割を占めた。反対する理由を複数回答で尋ねると、障害者を危険視▽住環境の悪化▽説明が不十分――などが多かった。

反対運動がないと答えたのは71の道県と市区。一方、46の府県と市区が「把握していない」と回答しているため、実際には68件よりさらに多くの反対運動が起きているとみられる。

16年に施行された障害者差別解消法は国や自治体に対し、障害者施設を認可する際は周辺住民の同意を求めず、住民の理解を得るため積極的に啓発活動するよう付帯決議で定めている。しかし、反対運動が起きた時に行政が関与すべきかどうか都道府県と市区に尋ねたところ、「仲介すべきだ」と「仲介する必要がない」がほぼ同数で拮抗した。

障害者施設の反対運動に詳しい野村恭代(やすよ)・大阪市立大准教授(社会福祉学)は「反対運動は、障害者が地域で生活するうえで代表的な障壁の一つ。障害者の地域移行を進めるため、自治体は反対運動について住民の認識を変える機会と捉え、積極的に介入すべきだ」と話す。

◇障害者施設反対運動の件数

@大阪府  9件

A奈良県  8件

B東京都  7件

C新潟県  6件

C愛知県  6件

E神奈川県 5件

F千葉県  4件

G岐阜県  3件

G岡山県  3件

I静岡県  2件

I滋賀県  2件

I京都府  2件

I福岡県  2件

I熊本県  2件

N青森県  1件

N群馬県  1件

N福井県  1件

N三重県  1件

N兵庫県  1件

N佐賀県  1件

N大分県  1件

■2019.12.25  誤嚥性肺炎ゼロの介護施設は何が違うのか  たった数十秒でできるケア術
モンキー・パンチに眉村卓……。著名人を含め、今年も「誤嚥性肺炎」は数多の命を奪った。高齢者に特徴的な病とあって、介護現場にとっては脅威。敬遠する向きもあるが、正しいケアを行えば、「ゼロ」にすることも可能だという。成功事例の現場レポート。

スプーンひとつで人を殺せる――都内のさる介護施設では、この病の恐ろしさをそう表現し、職員に警鐘を鳴らしているという。
「介護士の三大業務と言われるのは、排泄、移乗、食事。一日の仕事の半分はこの三つの介助に費やされます」

とは、さる介護施設の男性ケアワーカーである。移乗とは、自力歩行の出来ない入居者の移動を手伝うことだ。

「もしこの中で、やらなくていいということがひとつあるとしたら、私は迷うことなく食事介助を選びますね。排泄も嫌ですが、慣れの問題ですし、移乗も腰に来ますが、コツさえ会得すれば大丈夫。しかし、食事だけはどんなに気を付けても誤嚥させてしまう危険性が出てくるんです。窒息の危険もありますし、食べ物が肺に入ってしまえば肺炎を引き起こす。その先は死と隣り合わせです。毎日三食、緊張を強いられますからね……」

誤嚥性肺炎。新聞の訃報欄などを見ると、しばしば死因としてその名が載る病である。

ごくごく簡単に説明すれば、この肺炎は、食べ物や唾液などが本来の通り道である食道ではなく、空気の通り道である気管に入り込んでしまい、肺に溜まって腐敗。細菌が急激に増殖して起こる病だ。

通常、食べ物などが喉を通る際には、自動的に気管が閉じ、侵入を防ぐ。これを「嚥下(えんげ)」と呼ぶ。また、間違って食べ物が気管に入り込んでも、むせたり咳き込んだりすることで排出される。これは「咳反射」と呼ばれる。

ところが、老化が進むと、自律神経や筋肉の衰えによって、この「嚥下」や「咳反射」がうまく出来なくなる。そこで、食べ物が気管に入る「誤嚥」を起こしてしまうワケだ。

現在、これと肺炎を合わせた死亡者数は、日本人の死因の3番目に上る。いわゆる「三大疾病」に肩を並べた格好だ。

仮に一命を取り留めたとしても、入院すると、絶食、安静を求められることは必至。すると結局、身体の機能は衰え、寝たきりとなる例も少なくない。元のような生活に戻ることはなかなか出来ないのだという。

ある老人ホームでは1年間で16名の入居者が肺炎で入院したが、施設に戻ってこられたのはたった3名。ほとんどが死亡や長期の入院生活を余儀なくされた。誤嚥性肺炎と診断された高齢者の1年以内の死亡率は17%、2年以内では50%というデータもあるほど。ゆえに、冒頭のごとく、介護施設が神経質になるのは当たり前なのだ。

しかも、である。

「経験のあるスタッフの間では、誤嚥の怖さは皆わかっていますが……」

と言うのは、別の老人福祉施設の女性介護福祉士である。

「介護の現場は今、深刻な人手不足。そのため、新人スタッフが一日の研修もなしに現場に立つケースもあります。当然、彼らは『誤嚥性肺炎』という病の存在自体を知りません。また、最近は会社をリストラされ、“仕方なく”介護職に就いている人も少なくない。そうした人の中には、仕事を軽んじ、現場を舐めている人も見受けられます。そうした人に当たってしまうと、本当に怖いですよね」

実際の現場で、三食のうち最も誤嚥が起こりやすいのは、朝食だという。

「入居者さんの身体的機能が目覚め切っていないので、飲み込むための筋肉も働きが悪い。介護スタッフも夜勤明けで、疲れ切っている上に、朝はオムツ替えやパジャマからの着替えなどで忙しく、集中力にもムラが出てくる」(同)

誤嚥が原因で入居者が亡くなりでもした場合、訴訟を起こされる恐れもある。トラブルにならなかったとしても、担当した職員の心の傷は大きい。ゆえに、どう誤嚥を防ぐかが、介護施設の中心の課題となっているのだ。

毎日数十秒で…

「体調不良のお年寄りを診る時はまず誤嚥性肺炎を疑え、というくらい、起こりやすく、危険な病気です。高齢者の肺炎の8割は誤嚥性とも言われている」

とは、原宿リハビリテーション病院の稲川利光・筆頭副院長。

「しかし恐ろしい病気であるのと同時に、ケア次第で防ぐことが出来る病気でもある。それはぜひ知っていただきたいと思います」

実際、施設全体で対策に取り組み、患者を激減させることに成功した例もあるのだ。
その一つが、富山市にある特別養護老人ホーム「梨雲苑」である。
「当院では2011年から、誤嚥予防の『口腔ケア』に取り組み始めました」
と言うのは、施設長を務める、坪内奈津子さんである。

「グループの特養の入居者はおよそ130名。ケアを始める前はそのうち毎年、10名に満たない程度が誤嚥性肺炎で入院し、その後亡くなった方もいました。そこでその対策を課題として捉え、歯科衛生士の方に口腔ケアを学んだ。11年に業務提携を結び、職員への指導と定期健診をお願いしたところ、2年後の13年には入院をゼロにすることが出来ました。今に至るまで、それは続いています」

その方法は三つにわかれる。

〇「簡単口腔ケア週2回法」

〇「口腔内臓器つぼマッサージ法」

〇「手技で行う咽頭ケアと排痰」

これらのうちで気になるのは「口腔内臓器つぼマッサージ法」である。

坪内施設長が言う。
「これは毎日行っています。食事が飲み込みにくい、という人は食前に、そうでもないという人は食後に行う。これで飲み込みにくかった方は食事を食べやすくなるというわけです」

被介護者に口を開いてもらい、口内にある複数のつぼを、手袋をしジェルを塗った指でマッサージ。また、つぼだけでなく、唇をもんだり、頬を横に広げたりすることで、嚥下機能の向上と回復を促せるという。また、唾液が出やすくなるため、口内が滑らかになるとか。

「これは毎日数十秒で終わります。一人の口腔ケアに何分もかけてしまうと、業務に支障が出るのはもちろん、入居者さんも疲れてしまいますが、これくらいならお互い無理なく簡単に出来る。続けて効果が出ている要因だと思います」(同)

確かにそれほどの重荷とも言えない作業である。
「誤嚥性肺炎予防といっても、このように、日常生活の中に組み込めるものはたくさんあるのです」

と、介護予防トレーナーの久野秀隆氏も言う。

「まだ元気な人であれば、私が勧めているのは、『考える人体操』に『カメレオン体操』。前者は、両手の親指をあごの下につけ、ロダンの『考える人』のように前かがみになり、手の中に10回ほど息を吐く。後者は、カメレオンが遠くに飛ぶ虫を捕まえるように、ベロを長く伸ばす。これを10回ほど繰り返すのです。食前に行うことで口や喉の準備体操になる。“いただきます”をするのと同様、習慣化させてほしいですね」

■2019.12.25  誤嚥性肺炎ゼロの介護施設は何が違うのか  口の中を清潔に、喉を鍛える
誤嚥性肺炎というと、その名からイメージするのは、食べ物を間違って飲み込んでしまった際に起こる病気、というものが普通であろう。

ところが、唾液や痰が気管に入ることでも肺炎は引き起こされる。実はこちらの方が割合が高く、より深刻なのだという。


原宿リハビリテーション病院の稲川利光・筆頭副院長は言う。

「普通の誤嚥であれば、むせたりするので本人も気づく。しかし、嚥下や咳反射の機能が衰えている高齢者の場合、唾液や痰が、寝ている間にいびきなどに合わせて気管から肺に入ってしまうケースもあります。これが『不顕性(ふけんせい)誤嚥』で、周囲はもちろん、本人も気づかない間に起こります。思い当たる節もないのに、熱が出る。食欲や体重が急激に落ちる。重篤な肺炎に至るケースも少なくありません」

中には病院に行ってレントゲンを撮ると、もう肺が真っ白で、1〜2日で重篤に陥る、というケースもある。

便と同じ数の…

それを予防するためにも、(1)で述べた口や喉のマッサージ、トレーニングは重要なのだが、

「その大前提として、まず口の中を清潔に保つことが絶対に必要なのです」

と稲川副院長が続ける。

「一日歯磨きをしなかった人の口の中はとても不潔になります。お年寄りの中には自分で歯を磨くことが難しい人もいますし、施設に入っている人でも、ケアが十分でないのか、歯にびっしり歯垢が溜まっている人がいます。歯垢はばい菌の塊で、実は人間の便と同じ数の菌が付いていると言われています。そんな口の状態なら、中の食べ物はもちろん、唾液や痰が肺に入り込んだら、当然肺炎が起こりやすくなる。逆に言えば、口の中の菌を減らせば、仮に誤嚥したとしても、肺炎を発症するリスクは低くなるのです」

この原理を実践するように誤嚥性肺炎を減らした施設が、福岡市に構える特別養護老人ホーム「マナハウス」である。
施設長の小金丸誠氏は言う。
「当施設には、69名の入居者がいらっしゃいます。口腔ケアを始める前は、肺炎で年間25回、合計545日間の入院がありました。しかし、17年に口腔ケアを始めてからは、入院回数が10回、144日間にまで減少しました」

それぞれ半分以下、4分の1という激減ぶりである。
歯科医師と相談して導入したという、その中身は以下の通り。

〇スポンジブラシで痰や食べ物のカスなど、口全体の大きな残渣物を取る

〇歯ブラシによるブラッシング

〇タンクリーナーによる舌の清掃とリハビリ

〇口の中にジェルをつけた指を入れ、歯茎→口上→口下→両頬→唇の順番でマッサージ

かかる時間は、1人当たり5〜10分。これを入居者1人当たり週2回行うというのだ。
「これによって、口の中の菌が減らせるのはもちろん、サラサラの唾液が出るようになり、口の中が柔らかくなるので、食べ物も飲み込みやすくなった。さらに、口臭軽減や汚れがつきにくいという効果も出てきました」

“健口”効果か、他の病気も含めた入院日数も3分の1に減少。また、入居者が入院すれば、当然、その間の介護報酬は支払われなくなる。入院の長期化はすなわち減収を招くが、しかし、マナハウスではその日数が減ったため、1年間で1200万円収入がアップ。その分を職員の人件費に還元できたという。また、そもそも、入院日数が減っているから、公の医療費の削減にも繋がる。こちらも1年間で4千万円超のダウンとなったとか。オマケに、効果がすぐ出る上に、命を救っているという実感があるためか、職員のモチベーションのアップにも結び付き、離職率も激減。いいことずくめの改革だった、というのである。

「当施設で使っている歯ブラシは市販のものですし、歯磨き粉も歯医者さんで購入できるレベルのもの。ケアの内容も歯科医師や歯科衛生士から指導は受けているものの、基本的で簡単なものなので、在宅介護でも導入できると思います。むしろ在宅なら週2回といわず、もう少し回数も増やせる。さらに良い効果を生むことが出来るのではないでしょうか」

“老人の友”

ゆえに、これらの手法を家庭で活かすことは十分可能なのである。
喉を鍛えること、何より、口の中を清潔に保つこと。実は誤嚥性肺炎対策は意外とシンプルだ。
「簡単に出来るんです。その第一歩として、まず自分の喉の状態を知ることが大切です」

とは、介護予防トレーナーの久野秀隆氏。
「例えば、最近食事中や会話中にむせることが多くなったな、という人は食道と気管をわける弁の機能が低下しています。また、食事をしていてもなかなかタイミングがわからず飲み込みにくい、噛み続けてしまうという人は、食道に押し込む舌の機能が低下しているということなのです。数年前の写真が手元にある人は喉仏の位置が変化しているかどうかも見比べてください。昔より下がっていたら筋力が低下している証拠です。半年に1度ほどでもよいですから、定期的に写真を撮ってチェックすることもお勧めです」

そうしたチェックは他人にも可能だという。
「声の変化が最もわかりやすい。久しぶりに高齢の親に電話をかけたらもごもごしていて、滑舌が悪くなっていた、というのは舌の機能の低下。声がガラガラしていた、というのは、喉の筋力が落ちている証拠。注意が必要な状態であると言えます」

これらの症状が出始めたら、すぐにケアが必要、というワケである。
「肺炎は老人の友」――とは19世紀末にアメリカの内科医が残した言葉だ。歳を重ねれば、この病と向き合わざるを得ないのは、1世紀以上前から指摘されていた真理。ならば、その“悪友”との付き合い方もしっかり身につけねば、いずれ命を奪われる、なんてことにも繋がりかねないのである。

 

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